自然本性についての考え事です

ITA VERITAS EST, UT FLOS

真理の機能説

はじめに:諸説概観

 真理についての歴史は長い。古典ギリシャのソフィスト、プロタゴラスの「人はすべての物差し」という有名な相対主義に端を発した議論は、今日に至っても解決をみていない。おおよその、諸説の問題を考えてみたい。

 真理とは、命題間に矛盾が生じないこと、という整合説は、命題という思念にしか着目しない。それは、思念として問題を認めうるものは真ではない、という意味であり、人の思念の吟味に専念したソクラテスの思っていた真理観であろう。ソクラテスは、自分は世界のことには関心がない、人に興味がある、と思っていたようである。しかし、世界と無関係な人を思い描くことに、はたしてどれほどの意味があるのだろうか。整合説では、思念にのみ注目し、思念に矛盾が発生しないかを吟味するが、その場合、なぜ矛盾が生じるのか、矛盾の生まれる源を、考察の対象から外している。思念における矛盾と整合は、真理の現象として確認しうるものにあたり、その現象が、なぜ生じているのか、真理の原因についての考察が、整合説には足りていない。

 同様に、何らかの命題が、人の自分に明らかであることが真理をなす、という明証説も、同じ問題を抱える。明証説も、命題、すなわち思念にしか着目しておらず、一つの思念が明らかなように思われるときに、なぜその思念が明らかなのか、説明していない。説明不能な、純粋絶対な明証性が真理なのだ、というのが明証説の主張なのであろうが、その主張をするのであれば、真理についてのあらゆる説明可能性が成立しないことを立証すべきである。確実に真といえるものが明証的なのは当然のことであり、整合説と同様に、なぜ、という考察を、明証説は十分におこなっていない。

 同様の路線は、合意説と余剰説についてもいえる。真理とは、人々が合意しうることである、という合意説は、一人の人が、なぜその命題に合意するのか、合意の根本的原因を説明していない。よもや、他人のために合意するのではないだろう。その場合、皆お互いのために合意し、お互いのためという理由で真理は存在していることになるが、わるくいえば、真理がそのように表層的なものであるとは、考えられない。他人の意見を参考にするにせよ、受け入れるにせよ、それを真と考えるときには、自分のなかでその命題に根拠を認めるがゆえに、その意見に同意する。合意説は、その、自分がその命題を承認し、その命題に根拠を見出す原因を、説明していない。また、余剰説(すなわち、仮に命題が偽である場合にも、その命題の偽は、その命題と反対の、あるいは別の命題しか意味せず、したがって真理とは命題を切り換えることしかしないため、命題から独立した真理を考えるのは余剰である、という説)についても、似通った批判を指摘できる。余剰説は、「猫は空を飛ぶ」という命題の偽が、「猫は空を飛ばない」という命題しか意味しない、と主張し、真理とはそのように、命題の変換しかおこなわない、と考える。しかし、まさにその、命題の変換がおこなわれる、変換すべきであるという判断(「猫は空を飛ぶ」という命題が偽であるという判断)の原因についての考察を、余剰説はおこなっていない。人は何らかの命題に偽を認めると、自らの思念を修正しようとするが、思念を修正する原因には、その思念に偽を覚えたということがあり、その思念の偽が、なぜ成り立つのか、余剰説は説明しない。

 以上の、思念にのみ注目する諸説に対し、真理の有用説は、人の生にとって役に立つ事柄が、その有用性を原因として、真理をなすと主張する。この説は、真理の根拠について、より踏み込んだ解釈をおこなっている。すなわち、生とは、世界におけるものであり、世界を生きる人にとって有益である点に、真理は発生すると、有用説は考えている。その点、考察の対象として思念のみ扱っていた諸説に対し、思念と世界の関係を取り上げている点で、議論により深みがある。しかし、有用性というのは、真理の説明として曖昧である。例えば、「花は生殖器ではない」という命題は、花の美しい印象を、美的にそのまま保ちたい人にとって有用である。そのため、有用説に立てば、この命題は真であるが、実際のところ、この命題は明らかに偽である。もし、人の生にとって有用であることが真理であるのであれば、この例のように、人の生にとって不利益な事実の真が、説明不能になる。それは、有用説の言う、人の「生」というものの曖昧さによっている。植物学者の生にとって、「花は生殖器ではない」という命題は、明らかに有用ではない(そのような命題を主張すれば、植物学者としての地位はない)。他方、園芸家にとって、「花は生殖器ではない」という命題は有用でありうる。というのも、花の美しさを生きる園芸家にとって、花が自分の生殖器と同じものだと思うことは、大きな障害であり、それを打ち消す命題は、有用だからである。すると、「花は生殖器ではない」という命題の真偽は、有用説にもとづくと、決定できないことになる。人の生の数だけ、この命題の真偽は分かれ、園芸家が、植物学者の生を受け入れる必要はないのだから(園芸家は、花は魔法によって代をつなぐと思えばいいのである)。しかし、そのような「花は生殖器ではない」の真を、認めていいのだろうか。

 思念と世界の関係を正面から扱うのが、真理の対応説である。すなわち、思念と「もの・事実」が一致・対応するときに、真なる思念は生じるという説である。それは、簡単な直感にもとづいている。A「そこに花がある」という事実があるから、B「そこに花がある」という命題・思念が真になる、と思うのがふつうだからである。この例をみて分かるように、対応説において命題が真であるときには、Aの事実も、Bの命題も、把握するものは「そこに花がある」という同じ内容に一致する必要がある。そのときに、問題が起こる。人が把握しうるものは、すべて人の認識である。では、認識Aが、認識の事実にあたり、認識Bが、認識の思念にあたるとすれば、人は、自らが認識しうる事実においてのみ、自らの思念を確認できるということになる。すると、自らが認識しえない事実についての真は、ありえないことになる。例えば、物理学の数式上にしか演繹しえない事柄には、人の思考では、事実として認識しうるものが描けない場合がある。そのような場合には、人が認識するのは数式という命題のみであり、その命題が、どのような事実に根拠をおいているのか、命題に対応する、命題とは独立の事実をおさえることが、ほぼ不可能である(せいぜい、一つの解釈を提示するぐらいであり、それは物理学の演算にはほとんど寄与しない)。すなわち、「そこに花がある」という認識の思念Bには、感覚的な現れにおける「そこに花がある」という認識の事実Aをおさえることができ、思念と感覚は異なるため、AとBの対応・一致関係を描きやすい。しかし、命題であるBに、量子力学のシュレーディンガー方程式が入った場合にはどうなるのか。事実であるAについての解釈は紛糾しており、諸説入り乱れているが、それは、その事実が、人の思考によっては、認識し難いためである。そして、Aの認識とは無関係に、Bの物理学命題を洗練させていくことが、実験の助けを借りて現に可能であり、今日の技術的恩恵は、その自由な数学的思考の賜物である。だが、対応説は、この量子力学の成功を、どのように説明するだろうか。そこには何らかの事実があるから、そしてその事実に対応しているから、物理学の方程式は真である、とはいえるかもしれないが、その肝心の事実についての手掛かりが、ほぼ何ら得られていないのに、方程式だけが真として成功しているという事態は、対応説的には説明が難しい。それは、花の例で言えば、部屋の明かりが何も点いておらず、真っ暗で何も見えず、特段の感覚が何もないときに、B「そこに花がある」という命題のみを思いついて、その命題が現実問題として真である、というような事態である。Aにあたる事実を把握せずに、Bにあたる命題のみが真であるというのは、対応説では説明できない1

本論:機能する思念

 以上において、まず、真理は世界との関係において考える必要があり、ただ命題・思念のみに注目しても、真理の原因は考察できないという点をみ、次に、世界との関係において真理を考える、有用説と対応説をみたが、いずれも問題を抱え、一般的な真理の説明には向かなかった。以上をふまえて、一つ提案をおこなってみたい。

 真理とは、思念が世界において機能することである。世界は、思念とは独立の存在であり、思念はその世界を、様々に思い描き、自由に自らの思念を形成する。思念には、どう思念しようともかまわない、絶対的な思想の自由があり、人が世界をどう思おうとも、人の勝手である。そのように、人に思念の自由があることは、思念の真偽が分かれる前提である。すなわち、自由であるがゆえに、一つの思念は、世界をよく説明し、別の思念は、世界をあまり説明しない。しかし、思念とは、一つの認識上の機能である。認識のうえに、思考が機能しているときの、その機能が、思念の実体であるためである。すなわち、思念とは、自分が機能することであり、自分の主体が主体性を働かせる機能そのものが、自分の思念である(そのため、主体とは思念に等しい)。すると、よい思念とは、よく機能する思念のことであり、したがって、世界をよく明らかにする思念とは、世界という対象について、よく機能する思念のことである。そのうえで、次の点をみてみたい。人に思念の自由があるのは、人の自分には、真も偽もないからである。その点、人が自分をどう思おうとも、その人が咎められることはない。しかし、自分に対置された世界については、直ちに明確に結果が得られるとはかぎらないものの、必ず、自分の思ったことの真と偽が発生する。思念とは機能であるという点をふまえると、世界について真偽が分かれるのは、思念が世界において機能しようとする際に、世界において機能する思念と、世界において機能しない思念が、分かれるためであるとはいえないか。例えば、「花は散らない」という命題・思念は、花という言葉が自分という存在の隠喩であれば、真偽が問われるようなものではない。むしろ、自分について、そして他の人の自分について、そして、人格化された散りゆく花について、「花は散らない」と思うことは、様々な思考と感情の作用を生み出し、思念は様々に機能する。しかし、人の自分との関係ではなく、世界に咲いている花について、「花は散らない」と思っても、その思念の機能は障害を来すのみで、世界について、それ以上思念を働かせることはできない。世界についての「花は散らない」という命題は、それゆえに偽であるのではないだろうか。すなわち、思念が、世界におけるものであるためには、世界の存在にかなう必要があり、世界の存在について対応説が抱えた問題のように、たとえ世界の存在がいかなるものなのか分からないとしても、自分の思念が世界において機能することそのものが、自分の思念が、世界の何かを説明していることの証拠にあたる(そのため、「花は散らない」という思念が障害を来して機能しないことは、その命題が世界を説明しないことを示す)。したがって、世界において思念が機能することは、世界の何かの説明に、思念が成功していることを示し、その機能において、思念の真理が生じるということを、示している。

 世界において機能することが、思念の真理であることは、先ほどの、量子力学の方程式の真を、過不足なく説明する。すなわち、方程式という命題・思念は、思念の機能そのものを純粋に定式化したものであり、その、機能として純粋な命題が、世界において機能することそのものが、その方程式の真を生む(現に機能しているかどうかを確かめるのが実験である)。その際には、世界の機能と、方程式の機能が一致・対応しているのかというように考える必要はない。単純に、方程式が世界において、式として機能すれば、その式は真といえるからである。そのため、機能としての思念が、世界において機能することが、その思念に真を与え、逆に、世界において機能しないと、その思念は偽になる。おおよその思念は、明確に機能することと、明確に機能しないことの、中間の、曖昧なものであり、その思念には、おおよその正しさと、おおよそのおかしさが指摘できるものの、明確な真偽は問えない。ただ、真理を、世界における機能と考えれば、ある程度の真という概念も、構築可能であり、自然言語における真理とは、このようなものなのかもしれない。

  1. 物理学命題に対応する事実は、実験におけるデータではないか、という異論があるかもしれない。しかし、物理実験におけるデータというのは、単なる数字であり、その数字に、事実として何を認識すればいいのかは不明である。問題になるのは、実験に支えられて構築される理論の、理論と実験の全体が、いかなる事実を表現しているのかが、捉えられないという点である。そこにあるのは、どのような事実にもとづいているのか不明のデータのみであり、そのデータをほぼ誤差なく演算する理論が得られているから、その理論は真であるという真理のみがある。すなわち、そもそもの事実Aが把握不能であり、事実を把握していない以上、その真理は、対応説による真理ではない。 ↩︎

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