科学の議論する「もの」が、実在していると言えるのか、という論争は、次の点で意味を有している。すなわち、科学は常に進展しており、すたれた科学理論は多い。熱の原因と考えられていた「熱素」や、電磁波の流体的媒質と考えられていた「エーテル」は、その理論が一般的だった頃には、広くその「存在」が信じられていたが、今では誰も、そのような「もの」が存在するとは思っていない。その点、科学の考える「存在」は、将来的にはすたれる可能性があり、従ってそのような「もの」は実在しない、と懐疑的に主張する立場があってもおかしくはない。そのような批判に対して、科学的存在の実在を主張する立場からは、実在しないとしたら、科学が説明に成功することはありえないのか、ではなぜ現代のめざましい技術的成功は成り立っているのか、という正当な反論がある。
ただこの論争は、哲学的には、非常に意味深い論点をなしている。すなわちこの論争は、真理とはいつ成立するのか、という論点をめぐるものだからである。反実在論は、古代地中海世界において議論されていた懐疑主義に等しい議論を根本としている。懐疑主義は言う、何かが恒常的に「有る」ことも、何かが恒常的に「無い」こともなく、すべてはうつろいながれていくものであり、その世界において正当なのは、ただそこにうつろう「現れ」をながめて、何も判断しないことである、その「判断保留」が、この世という世界を生きる最良の方法をなしている。
反実在論は、この懐疑主義の考えと、根本的には同一である。すなわちその議論は、真理として判断すべきものは存在しない、という立場だからである。人が「真である」または「偽である」と判断するものは、それが肯定であるとしても否定であるとしても、常に一過性の、独断であり、人がそのように思い込むために「真である」と思われているに過ぎない。従って、真理とはひとつの「想念」に過ぎず、真理は実在しない。
このような主張は、一つの強固な論点をなしており、それは次のような意味である。人に現れる世界は、人が生きやすいように、人の意識が再構成したものである。世界は、様々なかたちで、意識によって抽象・捨象されて主体に現れるものであり、その点、世界の現れとは、意識による想念にあたる。主体は、その想像の世界のなかにおいて行動し、いわば簡易なかたちで道具立てられた「世界」しか知らない。そのため、本質的に、人の思う「存在」とは「想念」に過ぎず、「想念」に「実在」が現れることはありえない。「何かが在る」と人が思うのは、その想念が確からしいというだけであって、根本的に、「実在するもの」を捉えることはなく、その想念が実在すると思うのは、一つの独断である。
以上の反実在論は、認識論に根差した懐疑主義において成立している。科学的実在論は、その懐疑主義に対して、何を言えるだろうか。テクニカルに言えば、科学が「在る」と思っているものが、ひとつの想念に過ぎないとしても、その想念は、世界の説明に「部分的に」成功している、という議論であろう。科学は、単一絶対的な世界像を主張してはおらず、様々な理論を道具にして、その道具によって確かめられるかぎりの世界を明らかにしている。それは世界のある「部分」について有意義な知見を人に与えており、その点、科学に価値があることは疑いえず、現にその「部分」として明らかになっているものを応用することに、科学は成功している。そのような科学の成功は、存在が人の想念に過ぎないとしても、否定されるべきではないのではないか。
この科学的実在論は、ある意味、先ほどの懐疑主義とのあいだに、共通点を持っている。すなわち、実在論は、科学の考える「もの」が、実在の「全体」にあたるとは、もちろん思っていない。そのように考える場合、科学の進展はありえず、科学者が世界を探究しようという動機付けも失われてしまう。すなわち、科学的実在論は、実在の全体についての独断を、常に排除し、一定の懐疑主義的見方をもって、常に現状の科学に疑いをもち、科学を改良していこうとしている。それはすなわち、科学的実在論とは、実在のある「部分」については、反実在論の言うように独断をもっているものの、その独断は、世界について絶対的に主張されるものではなく、世界の「全体」について常に懐疑主義的でありながら、かつ現状で「実在する」と独断しているものについても盲信はせずに、常に自分の「独断」を確かめそして利用しながら、世界の何らかの「部分」の究明にあたっている。そのため、正当な科学的実在論とは、「独断」と「懐疑」を兼ねており、その「懐疑」を受けて棄却された「もの」もあれば、独断していいと考えられている「もの」も残っている。
この立場は、真理論としては、何を語っているのだろうか。懐疑主義は、人の思う「存在」の真理性をすべて忌避し、人の想念についての肯定的・否定的な真理はありえない、と考えていた。正当な科学的実在論は、一定程度この主張に共通し、科学の想定する「存在」の全面的「実在」は主張しない。また、懐疑主義の認識論は、人の思う「存在」一般を「想念」と考えていたが、その点も、実在論は一定程度受け入れ、世界の記述として「有効な想念」と「無効な想念」を、常に鋭利に選別している。では、真理は実在しない、と考える反実在論に対して、科学の帯びている真理の立場は、いかに定式化できるだろうか。
根本的な論点は、人の思う「もの」が「想念」である、という点である。すなわち、人は、自分の「想念」が思い描いたものしか、世界について信じえず、自分の「想念」を世界において確認することでのみ、その「想念」の確かさを信じうる。それは、「世界」を「想念」と照合することにおいて真理が成立する、という意味である。世界とは、懐疑主義の考えるように、そこに現れているもののことである。その世界について知識を得ようとする人は、世界についての何らかの想念を得て、世界はその想念のように存在すると思う。科学とは、その想念の、有効・無効を選別するところに本質を有している。すなわち、ある想念を取り上げ、世界をその想念と照合し、想念の誤差を洗い出して、この想念はこの範囲と文脈において、この程度の有効性をもつ、と判断する。そのため、科学的真理とは、想念と世界の照合の精度を条件として、想念と照合されるかぎりでの世界を、明らかにするものである。
科学的方法論の考える真理が、このように世界と想念の照合にあるのであれば、想念とは本質的に任意であるため、その想念に対して照合される世界も、その想念との関係におけるかぎりでの、限定的なものである。そのため、想念と照合されるのは、常に世界の「部分」にあたり、かつ、照合に齟齬をきたすことが判明する想念は、棄却され淘汰されていく。そして、この真理の照合説は、世界の全体については、常に懐疑主義的である。「真である」と判断される「もの」は、常に一つの想念との関係において照合されるかぎりでの、世界の「部分」にあたり、一つの想念が世界の「全体」と照合されることを担保する必然性は、ありえないからである1。
反実在論は、哲学的にみたときに強固な論点を帯びている。しかし、科学的実在論は、正当なかたちでみるならば、ひとつの穏当な懐疑主義を含みつつ、科学的に精査された「想念」と、照合されるかぎりでの世界における「もの」の実在を主張している。その「実在」とは、科学的であるかぎりで、まったくの独断であることも、まったくの懐疑であることもない、中立的実在論であるといえる。その、科学的実在の中立性は、科学的実在の根拠が、一つの想念とのあいだの照合にあって、照合されるかぎりでの範囲において有効であるためである。科学は、科学であるかぎり、絶対的実在を主張することはなく、その科学的精神の根本は、この、真理の照合説に根差していると、いえるのではないだろうか。
- 注意が要るのは、照合説は、真理の対応説とは一致しない、という点である。対応説は、実在と想念が対応・一致するときに真理が成立する、と考える。その立場は、「実在」を何らかのかたちで定めており、そのように措定された「実在」に対して想念が到達することで、一つの想念は「真である」と考える。この場合の問題は、実在を、想念と無関係に定める必要がある、という点である。すなわち、対応説において「実在」を定めるのにも、具体的には一つの「想念」が必要であり、すると、その「想念」の真を確かめるための新たな「実在」を措定する必要が生じ、その過程は無限遡行に陥る。その無限遡行は、「想念」の真を、「実在」との対応・一致関係に求めたことに原因している。だが、想念の真とは、その想念と照合されるかぎりでの「世界」において確かめられる、と考えれば、想念に先在する「実在」を措定する必要はない。 ↩︎
2025.4.26 更新

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