1.問題の在り処
物が、常に定まった物理量を持っている、という考え方は、日常の物体について妥当する。あるボールの、色なり形なりは、変化が加えられないかぎり、常に定まっているからである。この考え方を、物理量についての定常仮説と呼びたい。定常仮説では、物理量は、観測とは無関係に定まっており、観測者は、ただそこに定常している物理量を確認するだけだ、と考える。だが、量子力学の記述するミクロのスケールにおいては、この定常仮説が、成立しないことが実証されている。すなわち、量子もつれにある一対の光子は、その片方のスピンを確定すると、もう片方のスピンも確定する、という関係にある。このスピンの確定が、光子の定常的な運動による(すなわち、光子のスピンは、もともと定常であり、2つの光子のあいだに、何らか未知の相関作用があって、その相関の作用を受けて、光子の定常的なスピンは、「定常的に」相関し合っている)と考える場合、ある実験をすると、その実験結果の値は、この範囲内に収まらなければならない、ということを示したのが、ベルの不等式(とその改良版の CHSH 不等式)である。その実験をおこなった結果は、ベルの不等式の指定した範囲を、有意にこえ、従って光子のスピンは、定常的にではなく、ランダムに確定する、という点が実証された。すなわち、光子のスピンは、ボールが飛んでいくときに、ボールが回転しながら運動していく(この場合、ボールの角運動量は定常である)というモデルでは理解できず、測定をおこなう時点までは、そのスピンは不確定であり、スピンの確定は、測定時点において、ランダムに決定する。
筆者は、この実験結果を、物の実在とのあいだで、整合的に理解したい。というのは、一般に、上記の定常仮説は、実在論と呼ばれており、ベルの不等式の破れは、ミクロの物の実在論を否定した、と言われるからである。だが、ボールの物理量が定常であることが、物の実在概念を定義する、というのは、物的「実在」の理解として、素朴なのではないか。光子の運動が、定常的でないことが、光子の「実在」の否定を意味する、というのは、必然しないのではないか。このような問題意識のもと、説明を試みてみたい。
2.基本的な考え方
もっとも基礎となる考え方は、粒子と空間についての反転原理である。日常の考え方では、物を記述する際には、その物という個の属性を定式化すればよく、それは例えば、その物の形なり、色なり、速さなりである。それは、空間という白い紙に、物という1個の点を描き、その点の特性を、様々に定式化する、という考え方である。その思考法の根本には、実在とは、その点である、という見方がある。反転原理とは、その紙の、白と黒を、反転させる、というものである。先ほどは、黒く描かれた、すなわち実在として指定されたのは、物という点であった。白黒を反転させると、紙は真っ黒になり、物という点が、白くなる。すなわち、物の性質を記述する際に定式化される、実在とは、個ではなく、その個が位置する、空間的な広がりである、という見方である。
3.有と無
反転原理の考える実在は、空間的に広がっているものであり、そのように空間に実在を認めること自体は、真新しい考えではない。相対論は、空間を時空として様々に限定しており、量子力学が記述するのも、基本的にその時空上に演算される量子場であるからである。その点、空間が、何らかの実体性を有しており、物理的に機能するものであることは、周知の事実である。筆者の意見は、その事実を哲学的に突き詰めるものである。すなわち、量子場は、ひとつひとつの粒子を場の励起と考え、その場が時間発展する際には、場は波状に振動する。反転原理に基づくと、それは、ひとつのものである粒子の、物理的有が、波状に振動する場である、と言うのに等しい。
ただ、その一方で、実在として空間しか考えないことは、先ほどの紙を、すべて黒く塗りつぶしてしまう、ということを意味し、そこに1つ存在している粒子の、個的性格をも打ち消してしまう。それもまた、物理的事実に反する。というのも、例えば光子は、事実として1個の粒子として存在することが確証されており、それは電子など、他の粒子も同様である。反転原理によって、量子力学的な場(という空間的な広がり)が実在であり、物理は、その空間(ルーズな意味での)において機能する、と考えるとしても、実在として波動しか認めない場合、ひとつひとつの波動を、1つのものとして他から区別する根拠が失われる。
この問題は、反転原理を、シンプルに理解すれば、解消される。すなわち、最初、白黒を反転させるまえには、紙には何の実在も考えず、紙上に描かれた点を、実在と考えていた。この場合、空間は無であり、物は有である。その白黒を反転させることは、すなわち、シンプルに理解すれば、空間が有であり、粒子が無である、という帰結になる。この場合、実在する物理的有とは、空間であり、その一方で、粒子とは、実在する物理的無である。
4.粒子存在のランダム性
空間という物理的有と、粒子という物理的無を考えたうえで、哲学としては、形而上学的に、次のように考えたい。すなわち、有と無は、一つの存在を結ぼうとするかぎり、互いに矛盾する。その矛盾は、有による無に対する反発と、無による有の混乱を生む。すなわち、物理的なミクロのスケールにおいて、極微に実在する粒子(質点としての)は、無として実在しており、無であるがために、その粒子は、有として実在する空間を混乱させ(すなわち量子場として励起して振動し)、かつ、そのように混乱する有から反発を受けて、常に慣性運動する。
素粒子がこのように存在するのであれば、その存在は、本質的に、定常であることはありえない。無の周囲の場は、定常的に存在するのではなく、実在が混乱して生じるものであり、また、無は、そのように混乱する有からの反発を受けて、その位置を定められないからである。ハイゼンベルクの不確定性原理は、粒子の位置と運動量のあいだに、確定性の反比例があることを示しているが、それは、無の位置を定めようとするほど、その無による有の混乱を招き、従って有から無に対する反発(粒子の運動の源泉)も散乱し、粒子の運動量が不確定になる、というように理解できる。
5.量子もつれの場合
以上の理解は、粒子の運動の源泉を、有的実在である空間に求めており、また、その空間からの作用を受けて、粒子存在は、常に変動を被っている。すなわち、量子力学的対象の性質(例えばスピン)が、基本的に不確定に存在するのは、空間である有が、無を確定させまいとするからであり、それは、いったん性質を確定させた粒子が、時間が経つと再び不確定な状態に戻る、という点にも確認できる。
その理解から、量子もつれにある光子対を用いた実験が、ベルの不等式を破ることを説明できる。量子もつれの、一方のスピンを確定させると、他方のスピンも反対の向きに確定する、という仕組みは、未解明なところが多いものの、そのスピンの向きが、ランダムに確定する、という点は、以上の理解から、自然に解釈可能である。というのも、基本的に不確定に存在する粒子存在は、その粒子(無)が位置する直近の空間(有)とのあいだの作用によってのみ、自分のスピンを確定させるからである。すなわち、空間(有)は、基本的に、粒子存在の性質(ここではスピン)を不確定に保とうとするが、量子もつれという何らかの理由によって、性質を互いに反対方向に確定させる作用が働くと、量子もつれ自体は、単にスピンの向きを反対に向けるものであるため、具体的にどちらの向きにスピンが確定するのかは、測定した時点での、そのスピンが置かれた直近の空間(有)からの反発によって、ランダムに決定する。
6.小括
以上の理解は、ベルの不等式の破れが、粒子の「実在性」を否定した、という主張に対する、修正をおこなうものである。すなわち、物の実在とは、その物理量の定常性である、という考え方は必然せず、実在の見方を哲学的に工夫すれば、ベルの不等式が破られるとしても、物の「実在」が否定されることはない。すなわち、物的実在は、空間という有と、粒子という無のあいだの関係において展開される、と考えれば、物の実在は否定されない。ベルの不等式の破れが示したのは、物についての、定常仮説が、ミクロスケールでは妥当しない、という点のみであり、定常仮説と、物的実在を混同するのは、適切ではないのではないか、と筆者は考えている。
7.定常仮説の哲学的由来
筆者の理解によれば、物の物理量が定常であることが、その物の実在を意味する、と考える見方は、日常の物に基づく(素朴ではあるものの)一つの哲学的立場をなしている。だが、物の定常性=物の実在性という理解は、筆者の見込みでは、およそ哲学の始まりと言われる地点にまで遡る、由緒正しい由来を持っている。すなわち、パルメニデス(紀元前 6-5 世紀)断片 8 には、次の言葉がある。実在(to eon)が不動のうちに完成していると述べたうえで、その理由として、
生成と消滅は、(注:真理から)実に遠く離れたところに作出され、そして真なる信念はそれらを退けたのだから。同じものとして、同じもののうちに留まりつつ、それ自らに基づいて在り、そしてこのようにして確固としてそこ(注:おそらく現在)に留まる。(8.27-30, 拙訳)
パルメニデスの推論は単純である。何らかの x が F であるとき、x が実在であるためには、その x はいかなる点においても F でないものであってはならず、恒常的に、ただ純粋に、F であるものでなければならない。すなわち彼によれば、ある時には F であり、別の時には F でないものは、存在として一貫しないため、実在をなさない。それは、定常的に F であるもののみが、実在をなす、という定常仮説に基づく実在観そのものである。ただパルメニデスの場合は、その実在概念は、極端な結論を帰結する。すなわち、実在とは定常するものであることから、現れたり消えたりするものは、実在ではなく、実在とは「同時にすべてが、ひとつの、連続したものとして、現在に実在する」(8.5-6)とともに、「あらゆる方向からみて完成されており、滑らかに丸い球体のかたちをした物体に似ている」(8.42-43)。すなわち、彼によれば、個の存在は、あるときには F であり、あるときには F でないため、F であるものとして定常するところの、実在ではない。そのため、世界は個を持たず、純粋単一な連続体である。そして、球は、その性質が、どの点からみても均質であるため、恒常的に F であるところの、実在にふさわしい、と彼は考える。
そのような、実在を、その存在の定常性に求める見方を、別の仕方で表現したのが、有名なプラトン(紀元前 5-4 世紀)のイデア論である。『パイドン』篇には、イデアについて、次の言葉がある。
ではこのこともまた、随分まえから私たちは話していたのではないかね、すなわち精神は、何かを探し求めることのために、見ることや、聴くことや、何らか他の感覚を通じてというように、肉体をも併せて用いるときには――というのも肉体を通じてとはまさにこのこと、すなわち感覚を通じて何かを探し求めることだからね――、精神は肉体によって、いついかなる時にも決して同一を保たないもののところへと引きずられ、そして精神それ自体も、ちょうど泥酔しているかのように彷徨い混乱してめまいがするが、それはそういったものを掴んでいるからなのだと。
その通りです。
だがその一方で、精神がそれ自体で、それ自らに基づいて探し求めるときには、かのところへ、すなわち清らかにかつ永遠に存在して、滅びることのない不死であって同一のあり方を保つもののところへと向かい、そして精神はそれと生まれを同じくもしているために、精神がそれ自体で、それ自らに基づいたものとなり、それ自体において振り解かれるときには、いつもかのものと共にいるようになり、そして、彷徨うことを止め、かのものの許で永遠に、同一であるものに基づいて同一のあり方を保つが、それはそういったものを把握しているからなのだ。そして精神のこの様子が、思慮と呼ばれているのではないかね。
まったくもって、彼は言った、ソクラテス、うつくしく真実であることを仰っています。(79c2-d9, 拙訳)
引用中の、永遠に同一を保つ「かのもの」はイデアを指し、それは次のような意味である。x は F である、と言うときには、x に置かれるものは、何らか変動するのが常であり、それは、恒常的に F という性質を有するものではない。それに対し、F という性質それ自体は、x のように変動することがなく、何らかの F という性質として、常に定常する。すると、実在とは、純粋に同一を保つ、x とは無縁の F-ness であり、その純粋な F-ness は、変動する x の世界――感覚的なもの――から切り離されたところにある、純粋な精神のみが捉える世界において、ただそれ自体で、それ自らにのみ基づいて、永遠に実在する。
プラトンのこのイデア論も、実在とは、同一性において定常するものである、という定常仮説に基づく実在観をなしている。パルメニデスの場合は、定常仮説は、物理世界の変動性を否定し、変動することのない実在世界を措定していたが、プラトンの場合は、定常仮説は、物的世界とは別に、精神の把捉する世界の実在性を主張する根拠をなしている。そのいずれの場合も、実在とは、何らか定常するものである、という論点を根本にしている。
8.実在の見方
ベルの不等式の破れは、ミクロの物についての定常仮説(すなわち物の物理量は定常する)を否定し、ミクロスケールにおいては、物の性質はランダムに振る舞う、という点を実証した。筆者は、定常仮説の否定は、物の実在の否定にはあたらないと考え、その根拠として、考えうる可能性を模索した。すなわち、実在とは定常するもののことである、という古典以来の実在観に基づいて、ミクロの物は定常しない、ゆえに、ミクロの物は実在しない、と推論するのは誤りである。定常しないものとして実在を措定する可能性が、残されているからである。実在の見方は、理論と実験において確証されているところをもとに、柔軟に可能性を詰めていく必要があり、物の実在についての反転原理は、その一案である。ここでの提案が、物理を確かめるうえでの、何らかの文脈を提供できれば幸いである。
参照文献
Diels, H., Kranz, W. (rev.), Die Fragmente der Vorsokratiker (Weidmann, 1951 (6th ed.)).
Duke, E. R. & al., Platonis Opera Tomus I (Oxford University Press, 1995 (Oxford Classical Texts)).

コメントを残す