自然本性についての考え事です

ITA VERITAS EST, UT FLOS

真理の相対説:その精神と論駁

 数多くの相対主義が存在するなかで、真理についての相対主義を唱えたプロタゴラスの立場は、最も根本的なものである。その精神と、その立場の抱える問題点を考えたい。

 真理の相対説は、どのように反駁しうるのか。人の思想が、それを思った時点で、真として認められる、という相対説は、古い歴史をもちつつ、長い命脈を保っている。ソフィスト・プロタゴラスが言う、「人はすべての基準」という主張は、おそらくだが、市民個人の心の自由を標榜したアテーナイ直接民主政の本質を要約している1。個人の自由な意見表明を骨組みとするアテーナイの政体は、すべて物事の基準は人において定義され、人に源泉する意思を、妨げるものは、他の人に源泉する意思以外にはありえない、という精神によって支えられる。即ち、物事の判断基準は、宗教的な権威でも、血統による社会階級でも、財貨による経済的優越でもなく、人の意思にある、という主張が、直接民主政の制度を根拠付けるとともに、プロタゴラスの真理説の中心にある。即ち、意思する存在である人が、そしてその意思の自由が、物事を左右する唯一の基準であり、従って、人の意思そのものに、偽なるものとしての烙印を押すことは許されず、人の意思が即ち真理であって、それがために、人はすべての基準をなす。

 相対説は、このように、当時の政治的現実において、民主政の理論的基礎を与えるものであり、王政(それは宗教的権威付けを伴う)・貴族政(血統による)・寡頭政(資産を独占する少数者による)のいずれをも排して、いかなる外的要因にもよらない、市民個人の意思の自由にのみ基づく政体を確立するのに寄与した。だが、そのような政治原理の要請するところから離れた、ひとつの哲学理論としてみた場合、相対説はどのような意味をもちうるのだろうか。例えば、次の文がある。

大理石は空(そら)である

この文を思う思想は、相対説によれば、大理石についての真を表明している。だが、大理石というのは固体であって、気体ではなく、従って大理石が空であるという思想は偽である、と人は言うはずである。そうすると、次の文が成り立つ。

大理石は空ではない

相対説によれば、この文の思想も、人がこの思想を思う時点において、真である、という結果になる。そのため、人の思想の数だけ、大理石についての真理がある、ということになる。

 そのような、人の数だけ成立する真理は、人の自分についての真理であろう。自分の捉え方は千差万別であり、自分の数だけ自分が存在するのが真実である。そのため、自分についての思想は、人の自分に関するかぎり、偽であることはありえず、自分の思想として成り立つかぎりにおいて、常に真である。先ほどの、「大理石は空である」という文は、大理石についての印象を、詩的に表現した思想として、正しく思う人がいるかもしれず、それは、《自分の》世界の見え方において、その思想が正しく映るという意味である。芸術は、自分に表れる世界を描写し、いわば自分の解釈を提示するものであるため、自分の数だけ芸術は存在し、芸術として成り立つかぎり、そこに偽はない。そして、人々の自分の、集団としての行動を一つに様式化するときに、相対説が訴求力をもつのも、集団が自分を成員とするためである。即ち、集団の行動原理の、一つの見方が、集団は自由な自分へと還元されるべきである、というものであり、その自分の自由は、自分についての思想に偽はない、という点に、理論的な根拠をもちうる。

 すると、相対説の主張は、次のように定式化できる。即ち、「自分についての思想の基準は自分しかない」という意見である。だがこの考えは、相当に自分勝手な意見に映る。自分は、他人とのあいだの行動において自分の思想を培うのであり、自分の思想の基準を考えるときに、他人を無視することはできない。即ち、自分の思想は、ただ自分において発生するのではなく、他人という要素を必要とする。他人と協和する・反抗する・学習する・触発されるにせよ、人の思想が、純粋な自己のみにおいて築かれることはなく、それは人が、思想を抱くためには、長い時間をかけて成長する必要がある点にもうかがえる。自分のものと思いうる思想は、長い経験と、その経験のなかでの自己の錬成を要し、それは思想がすぐれているためにという意味ではなく、人それぞれの自分に、自分なりのものの見方が醸成されるという意味である。自分の思想の基準は自分のみである、という相対説は、その自分という存在と思想が、他人の存在と思想を必要条件とするという点を度外視しており、思想に対する見方に欠ける。

 そのため、相対説の主張は、次のように修正されるべきである。即ち、「自分についての思想の基準は自分の経験である」という主張である。ここに、相対説は困難を抱えることになる。即ち、相対説が相対的であるためには、物事の基準が、《自由な》自分のみに依拠する必要がある。相対説の主張は、自分が思うように物事は決まる、というものだからである。しかし、自分についての思想の基準が、自分ではなく、自分の経験にある、とすると、次の困難がある。経験は、現実において行動するための、一種のアルゴリズムの集積である。現実におけるある目的のために、どのような要素が必要であり、それらの要素をいかに組織化して、どのように実行すると、どのような負荷と成果が想定しうるか、というアルゴリズム的演算が、人の経験の本質であり、経験とは、そのような個別の演算の集積による、人の精神の全体的な行動体系の塑造である2。経験が深いとは、アルゴリズムの精度が高いという意味であり、その場合の精度は、現実に対する対処の結果が、最小の負荷によって最大の成果を得ること、である。

 経験は、そのように現実という制限下におかれており、現実において行動するときに、人に単純な自由がないように(瞬間移動しようと思ってもそれは叶わない)、経験とは自由を現実において束縛するものである。すると、相対説の主張は、さらに次のようになる。即ち、「自分についての思想の基準は、現実を操る力をもつ人にとっての、自分の経験である」という主張である。なぜなら、自分にとっての現実が、自由に操れるような性質の人(古代の当時の貴族など)であれば、その人の思うところが、自由に自分についての思想を定め、そのかぎりで相対的に成り立つからである。プロタゴラスが念頭においていたのは、このような主張であろう。自分の恣意によって物事を定める力を有する人にとって、人の物事というのは、ただその恣意のみを基準にする、という、現実における卓越を前提にした議論が、想定されるためである。従って、相対説の主張とは、人の数だけ真理があるような性質の事柄について、その真理の基準をなすのは、現実を操る卓越を有する人の、自分の経験に裏付けされた、自分の恣意である。

 さて、相対説の主張する精神とは、おそらくこのようなものだが、この立場に対するプラトンの批判として、相対説の自己論駁というものがある。即ち、次の文がある。

相対説は誤りである

相対説によれば、人の思想は、人の自分についてのものであるかぎり、必ず真であるため、「相対説は誤りである」という思想も真になり、従って相対説は否定される。しかしこの意見は当を得ていない。というのも、この論法によれば、次の文、

相対説は正しい

も、等しく真であるため、人の思想の如何によって、相対説の成否は左右される、という結論しか得られず、それは相対説のもともとの主張である。即ち、相対説の主張とは、人の自分に関するかぎり、真理の絶対的な基準は、自分の力と経験にのみ依拠する、というものであり、人の自分についての真理の絶対性を、個人へと還元することが、その根本である。即ち、相対説は真理の絶対性を放棄するのではなく、個人の意思と思想が、真理として皆等しく絶対である、と主張するのである。

 このような主張をする相対説について、先ほどと同じような、次の疑問が湧く。自分についての思想の真理は、自分の経験と恣意においてのみ定まる、と相対説は主張する。そして、自分の思想の真理を、自分の恣意によって定めうるのは、自分に自由な恣意があるとき、即ち自分の経験が、現実に対する自分の卓越をそなえ、かつ自分が卓越するかぎりにおいて、である。すると、いつ自分は、現実に対して卓越するのだろうか。自分の思想についての真理が相対的に成り立つのは、自分の恣意が、その思想の真を自由に決定できるときである。その自由は、現実を思うように操ることができる、という点を仮定している。しかし、現実を思うように操る、という事態は、果たしてありうるのか。物理的現実を、一定程度操ることは人に可能である。高度な技術的進歩を得た現代では、その操作という感覚を覚える人も多いかもしれない。しかし、いくら技術が進歩しようとも、その技術が、現実を加工する技術であるかぎり、そこには現実という制約(物理法則など)が存在し、そのような制約を無視した、単純に思うがままの操作はありえない。

 そのような、現実による制約は、古代においても同様である。プロタゴラスは、当時の貴族相手に弁論教育をしていたため、彼が念頭におくのは、命令すれば人々を支配できるような、社会的特権を有する人である。彼ら貴族であれば、社会という現実を、思うように操る力をもっており、その点、自分の思想についての相対的な真理の余地が考えられる。だが、貴族であって、人々に対する強制力があるとしても、自分の思うがままに存在する他人はありえない。命令して、強制することで服従させられる相手であったとしても、その弱い立場にある人の、自分に対する見方・心情を、自分の思うように自由に操ることは不可能である。従って、自分の思うように操ることのできる現実というのは、100% という意味では存在せず、その点、自分の思想が、自分の思うがままに真理である、というのは、部分的または表面的にのみ成立し、古代の当時であれば、人に対する一種の暴力的な見方(奴隷に人格を認めないことはその典型)に基づいている。即ち、自分の現実に対する卓越とは、ひとつの幻想なのである。

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 しかし、人は言うかもしれない。仮に 100% の恣意がありえないとしても、現実問題として、人々の社会は、社会という現実に対する卓越をそなえる人々の、その自由な恣意に依拠して動いている。人の自分と、人々の自分に関するかぎり、その自分についての思想は、必然的に、卓越した経験を有する人の、その経験に基づく恣意によって、ただ相対的に成立するのではないか。この意見に対する一つの反論として、次がある。人が卓越を手にするときには、人は《正しく》卓越する必要がある。不正による卓越というものは存在せず、卓越とは即ち、人が正義において自らの生を貫徹すること、それのみである。しかし、人の恣意にのみ基づく正義はありえない。というのも、正義とは、他者の自分と、自らの自分の、生における幸福を、二者の幸福がちょうど均衡するように、実現することである。自分の幸福のために他者の幸福を損なうこと、および、他者の幸福のために自分の幸福をなおざりにすることは、前者は悪を、後者は病を結果し、そのいずれも、他人に対する、そして自分に対する、自分の恣意にあたる。

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 この反論は、人の卓越について次の2点を意味する。まず、卓越を考えるときには、自分のみではなく、自分と他人のバランス・関係を考える必要があるという点、そして、他人ではない自分というものも、必ずしも自分の思い通りにはならない、という点である。というのも、自分とは、社会の現実において、常に他人との関係において行動し、そのように行動するかぎりにおいて、自分の卓越を考えることができる。そして、すでにみたように、自分は、その現実のなかの行動によって、他人との関わり合いのなかで形成され、そのため、純粋な自分だけの自己というのはなく、自己とは常に、他人とのあいだの相互的存在としてのみ成り立つ。人の卓越は、その他人とのあいだの相互性を満たす(即ち正義に適う)かたちでのみ可能である。すると、卓越が相互的関係においてのみ成立するならば、人の恣意は、その相互性を無視するところに働くものである以上、卓越を定義することはなく、従って卓越を有する人が、《自分の恣意によって》人の自分についての思想の真理を思い通りにする、ということはありえない。

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 以上をまとめてみたい。相対説の主張とは、自分の恣意が即ち真理である、というものである。その場合の恣意は、現実を思うように操る卓越を前提にする。しかし、真に成り立つ卓越とは、他者の幸福と自分の幸福の均衡を実現するところにあり、その均衡から外れるものが人の恣意であるため、恣意が卓越を結果することはありえず、恣意が卓越するということは、人の真なる卓越に矛盾する。従って、自分の恣意が真理を意味する、という立場は、その前提に矛盾を抱える。

 だが、相対説は反論するであろう。たとえ自分の存在が純粋な自己におけるものではないとしても、かつ自分の恣意における卓越がありえないとしても、自分を自分が思い通りに定義することは認められていいのではないか、その自由が、自分の本質なのではないか。その反論に対しては、次の再反論がある。自分個人が、他人とのあいだの幸福を損なわないかたちで、自分を思うように定義することはありうるかもしれない。しかしその場合、選択し意思する自分の、自分に対する正義が問われる。即ち、自由を享受する自分は、自分の自然本性を損なわないかぎり幸福であり、そのため、人の自由は、自分の自由における幸福と、自分の自然本性における幸福の、均衡においてのみ正しく成り立つ。自分の自然本性を損なって自分の自由を望むことは人を狂わせ、自由を犠牲にして自然本性を守ることは人の精神を苛む。自然本性と自由が、そのいずれの幸福も均衡して実現するときに、真なる意味で幸せな生が帰結するのであり、そのため、純粋に自分の思うように自分を定義するということは、自然本性を無視するかぎり、不幸な自分を帰結する。そのため、自分の意思が、いずれも真である、という相対説は、その根本において、自分の幸福を毀損する。人は相対説的な願望をもつかもしれず、それは人の思想が、本質的に自由であるからである。しかし、世界において生きるためには、そして幸せに生きるためには、自分の思うままに意思するのではなく、自分の幸せと、自分の自然本性と、他人の幸せの均衡する地点を、見出し実現する必要がある。その意味で、相対説は、自分にのみ重きをおいて、幻の自由を唱えるものであり、生きた生における自由のためには、単に自分が正しいと思うのではなく、他者との均衡を条件とする自由を、見出す必要がある。

  1. アテーナイ民主政が「心の自由」という精神を標榜したとする史料としては、トゥキュディデス『戦史』中のペリクレス葬礼演説の記述(アテーナイ人は、誰かが自分の「楽しみ hedone」のために何かをしているならば、その行為についてとやかく言わない(2巻37章))と、同じく葬礼演説中の、アテーナイでは一年を通して市民の心を休ませる祭事を催すという言及(2巻38章)、また、プラトン『政体』篇(一般に言う『国家』篇)の民主政批判での、民主政における市民を「色とりどり poikilos」と形容する箇所が挙げられる。 ↩︎
  2. 人の経験を、アルゴリズムとして考えることは、アルゴリズムという形式的概念に掬い取れない、人の経験の曖昧さを無視しているように映るかもしれない。人はアルゴリズムによらない、ふとした思いつきや偶然によって行動することがあり、そのような偶然性と、形式に則った必然的な行動の、両者を併せたものが、経験を形づくるためである。しかし、筆者の意見は、人の偶発的行動なり思いつきは、人の無意識中のアルゴリズムの作用に依拠し、あくまで何らかの目的をもった、現実に対する形式性に起因する、というものである(目的にとらわれずに行動しようとするときにも、無目的という目的が設定される)。それは、神経の発火が、何らかのかたちで、行為が一意になるように機能する、という意味であり、その、発火目的の一意性が、経験一般のアルゴリズムへの還元を可能にする。 ↩︎

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