イデア論の解釈を通じて、存在とは何かを考えてみたい。イデア論は、単に一つの理論上の立場と見做されることがあるが、より意味深い価値を有していると筆者は考えている。以下、その考えを短いメモにまとめたい。
1
プラトンのエイドスを「特質」、イデアを「特質実体」と理解し、それに併せ、メテケインを「具有」としたい。この理解の要点は次の通りである。エイドスは、何らかのXの「Xそのもの」として、「それ自体で」成り立っている、とプラトンは言う。すなわち、Xという存在の原理的原因(存在そのもの)が、Xとは無関係に実在する(それ自体で:カタ・ハウト)と考える。プラトンの着眼点は、Xの存在原因が、Xという「もの」(感覚的判断の思うもの)に起因するのではなく、むしろ「もの」から断絶した、独自に機能する地平に成立している、というものだった。その〝断絶実在原因〟を、プラトンはエイドス・イデア(直訳では「姿」すなわち心眼の対象)と表現したが、その意味を汲み取り訳すと、イデア論とは、Xの存在原因を、Xの具有する特質に求めている、と言い換えられる。Xの特質とは、Xに特有の性質であり、Xについての固有な説明を生み出す原因である。プラトンは、何らかのXを説明するときに注目する、Xの特質が、存在として、Xとは無関係に独自に機能することを発見した。彼は、事物の具有する特質を、具有から離れて、純粋な思惟のうちへと濾過させると、特質が実は、それ自体の独特の実在として、固有の限定を伴い、その断絶された特質が、あらゆるXにとっての存在の原因をなすと、見出したのである。
2
通常の感覚的判断では、Xの存在原因は、単にそこにXがあるためである。しかしイデア論では、Xから断絶して存在する、Xの特質実体が、Xという「もの」の存在原因をなす。Xの実在は、Xという「もの」ではなく、Xの具有する特質であり、その特質実体を具有するかぎりで、Xの存在は生成する。その論は、次のように解釈できる。現代物理学は、世界の実在について、日常の判断の思うところとは、相当に食い違う事実を確証しており、理論と実験が明らかにする世界の姿は、日常判断から乖離している。すると、Xの存在原因を、単純に、その「もの」がそこに存在するから、と因果付けることは難しい。判断の思想内容の思う「もの」が、世界の実在においてそのまま存在していると言えないからである。すると、Xの存在原因は、我々にとっては不確かな実在世界における存在限定と、我々の思想内容(心)における存在限定の、二者の相関に求められる。〝思想限定〟を本質的に任意なものと考えると、〝世界限定〟を思想限定するために、思想の導出する解が必要になる。即ち、Xが存在するから、我々の判断があるとは言えず、我々の思想が、世界限定を解釈可能なかたちで解き、その解法により、Xは生成する。Xの存在原因はこの解法にあり、解法とは、そのX特有の説明を与えることから、プラトンの言う特質は、これに相当する。
3
思想の導出する、世界限定を理解した解法は、その解法により処理され生成されるXに固有の特質をなす。特質は、あらゆるXの存在生成に関わるものの、何らかのXと一対一にのみ機能する必要はない。世界限定の違う場面が、同一の解法により、複数の異なるXを生成する場合や、同一のXの生成に、複数の特質が機能する場合も考えられる1。そのように、特質の機能は、世界と思想の媒介者として、独自の立ち位置を占め、さらに、世界を限定するとともに、思想をも限定する位置にある。思想は、自らが導出した解法によってのみ、世界を理解しており、思想の発展は、その所有する解法によって限定される。そのように、世界・思想・解法の三者は並び立ち、いわば三位一体となって、一つのXを生成する。先ほど、特質・解法は独自の機能をもつとしたが、個々のXには、その存在生成に関わる直接の特質がある一方、より広く、普遍性を有する特質も想定でき、例を挙げれば、《数》《個》《無》《時》の四つが、普遍解法として列挙できる。何らかの演算をする場合(数という解法に依拠する)と、何らかの性質を把握する場合(個に依拠)と、世界限定にはない事物を生成する場合(無に依拠)と、現実の推移を追う場合(時に依拠)の四つである。その他にも、解法は種々考えられる。
4
存在とは、何らかの機能の限定である。世界・思想・特質は、それぞれ独自に機能する。世界は運動において機能し、思想は心において変遷し、特質は世界と思想を媒介する解法として機能する。その三者の機能において、機能に何らかの限定が加わると、その限定において、存在は成立する。存在者は、個という事物に限定されず、機能一般の、あらゆる文脈の限定において、様々に発生する。いわゆる「無」の存在も、多様な機能を限定することから、「有」の存在と、存在論的に等しい。「〜である」という肯定と「〜でない」という否定も、判断という機能としては同一であり、思想機能に対する様々な限定の一つとして、思想機能を限定するかぎりで、ともに等しく存在命題をなす。即ち、存在が、何らかの機能に先立って成り立つことはなく、むしろ、何らかの機能とともにのみ、その機能を限定するかぎりで存在として成立する。そのため、限定する機能の種類に応じて、存在にも四通りのカテゴリーがある。即ち、思想存在(心的な「もの」)・世界存在(物的な「もの」)・特質存在(前述)・事物存在(三者の揃った機能における限定)の四つである。思想存在は、記憶や感情や印象など、世界存在は、物的に機能している、本質的には我々に不確かなもの、特質存在は、世界存在の解を思想存在に与えるもの、事物存在は、日常の感覚的判断の思うものである。
5
プラトンが、政体篇(一般に国家篇と言われるが正確ではない)において、善のイデアが、全存在に存在の実質(ウーシア)を与える、と論じたのは有名である。その意味を考えたい。対話篇の主旨としては、人の精神には、いくつかの機能があり、どの機能が精神を司るかによって、精神の政体(一個人における心の政治のあり方)の種類が推移するという論がある。即ち、精神の機能として、考究心・闘争心・情動心を挙げ、考究する心が、精神を統べ、意思判断を導く政体が最良であるとする。その論は、考究という機能が、いつ成り立つのかという議論へと発展し、それは、ゆらめく影としての感覚的判断の眺める「もの」から断絶した、特質(エイドス・イデア)の観想においてのみ成立すると論じた。即ち、思想と世界のあいだで流動する「もの・事物」を単に眺めるところから、その「もの」の存在を生成する原因である、恒常不変に成立している解法へと、意識を向け変えるとき、その意識において、人の考究は機能する。解法・特質とは、思想が、この世界のなかで生きていくために、真相不確かな世界のもつ限定を解いたものである。そのため、解法のすべては、よき生を導くために機能しており、すると、「善」というものを生成する解法は、あらゆる解法存在の、あらゆる機能の実質を限定する。それは、解法という地平全体を照らす、日照なのである。
- 筆者の考えでは、プラトンは、パルメニデス篇(第三人間論で有名である)の考察を通じて、イデア・特質は個別のXとはまったく無関係に成り立っていることを見出した。第三人間論は、Xという「もの」と、Xの特質を、まとめて認識すると、新たな特質が発生し、その新たな特質をもまとめて認識すると、さらに別の特質が発生する、という無限遡行を帰結する議論である。その議論は即ち、Xの特質に、Xという「もの」と何らか共通の性格・性質を認める場合、その共通の性格において、認識が新たな特質を見出しうる、というように理解できる(諸事物の共通性において見出す特質Aと、事物と特質Aの共通性において見出す特質は異なるため)。プラトンは、この議論によって、「もの」と特質に共通性を認めるかぎり、特質の存在が定まることはないという結論を得て、Xの特質は、Xという「もの」と、その性格・性質において一切何の関係もないという事実を発見した。実際、特質は、世界限定についての解法であって、個別の解法と、個別の事物は、存在として何ら共通するところはなく、たとえある事物Xの存在生成にある解法Aが原因となったとしても、その解法Aはまったく別の事物Yの存在原因にもなりうる。 ↩︎

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