自然本性についての考え事です

ITA VERITAS EST, UT FLOS

時間の極度現在説

はじめに:問題の設定

 実在する時とは現在のみである、という現在説には、様々な分かりにくさがある。過去はすでに実在しない時、未来はいまだ実在しない時である、という基本的な主張には、ある程度の根拠を認めることができる。過去そのものを、現在のように経験することは決してなく、それは未来も同じである。現在は、人の経験のなかでは、常に動いている唯一の現れであり、過去は記憶のなかに静止し、未来は、想像と期待のなかに不確定に存在する。その見方からすると、存在論的に、現在のみを根本的・実質的な、実在する存在と考えることには、説得力がある。他方、この現在説には、大きく3つの問題点を指摘できる。

A)現在とは、どのように実在するのか。今この文章を読んでいるという現在にも、時間的な流れがあり、どこまでが現在で、どこからが過去になり、何が未来をなすのか。むしろ、一定の流れがあるのが時間の本質であり、現在が明確に指定できない以上、現在のみが実在するというのは、誤りではないか。

B)現在のみが実在すると考える場合、過去も実在せず、未来も実在しない。すると、過去と未来の、存在論的な違いは、どこに原因があるのか。時間に流れがあれば、これから流れてくるものが未来、流れ去ったものが過去というように、未来と過去をそれぞれ異なるものとして指定できる。しかし、時間の実在において、過去と未来がない場合、現在には流れがなくなり、先ほどのようには、過去と未来を区別できない。では、いかなる仕方で、時間は流れているのか。

C)現代の物理学では、空間中のどこにおいても一様に流れる時間という概念は否定されている。ニュートンの絶対時間は、アインシュタインの相対論においては成立せず、時間は、観測者の運動および重力場によって、その速度を変化させる。では、現在しか実在しないと考える場合、物理学的に実在が立証されている、時間の速度の変化は、なぜ発生するのか。

1.時間の実在

 まず、基本的な前提から始めたい。時間は、基本的に物理的に存在している。そのため、A~Cにかけての問題には、物理を基本に答えていきたい。それらの問題をひと通りみるなかで、心理的な時間、意識における時間についても、少しふれたい。

 現代の物理学の基本は、時空である。一般相対性理論は、時空そのものの演算を、量子力学は、時空上に変化する量子場の演算をおこない、いずれの演算が計算する場も、空間の3次元に、時間の次元を加えた4次元の時空間をもとにしている。ただ、この時空という表現は、概念的なものというよりは、数式上の演算理論であり、自然言語でそのまま理解できるものとは言いにくい。時空という演算が、存在として何を描いているのかについては、哲学上の論争があるものの、筆者の意見を、先の投稿に示したので、そちらを参照されたい。その意見の要点は、物理的に存在する実体(有)とは、個々の粒子ではなく、空間という物理実体であり、この実体空間(有)に粒子という無(点には大きさがない)が作用することで、物理的な相互作用が発生する、というものである。また、相対論の示した時計の速さの伸縮も、この実体空間と粒子のあいだの関係によって帰結する。

 物理的な実体は、空間そのものであり、実在とは空間である。時間の速さが変動するのは、空間の性質によって、空間中の運動のしやすさに変化が生じる場合があるためである。すなわち、空間中の運動が運動しやすいほど、運動にかかる時間は速く流れ、運動しにくいほど、運動にかかる時間は遅く流れる。演算上の時空は、この運動の性質を計算するための概念であり、物理的に、空間に対して時間が、等しい実体として存在するのではない。というのも、時間は、運動(量子場の振動)においてのみ実在しており、運動における実在とは、空間という実体であって、粒子は実体をなさないからである。

 それはすなわち、次のような意味である。何らかの運動の計算をおこなうためには、一つの中心という個を設定し、その個が、座標上において動作すると考えなければならない。しかし、有である実体とは、無であるところの粒子ではない、物理空間であるため、この空間中に、中心という有は実在せず、有として実在するのは、単なる波打つ波動のみである(それも、水面の波動のように、粒子間の位置のずれによって形成される波動ではない、純粋に連続的な、一つの位置を指定できない波動である)。そのため、この波動そのものを、数によって計算することはできない。数とは、数の個という概念を基礎に成り立つものであり、個とはすなわち、一つの位置を占めるものでなければ、個として指定することができない。しかし、「一つ」というように指定するものが一切実在しない実体空間においては、動きの位置というものを指し示す有がなく、したがって、有単独においては、一切の「時間」すなわち、「一つ」の時刻と「一つ」の時刻(運動の「一つ」の瞬間と「一つ」の瞬間)のあいだの変化を、数において捉えることができない。時間を数え、この場所では数える速さが相対的に速く、この場所では数える速さが相対的に遅いという事実が成り立つためには、その事実の原因に、何か一つのものがあって、その一つのものの動きを追っていく必要がある。「動きを追う」ことにおいては、「何らかの一つ」が動く必要があり、「一つ」というものが一切存在しないところに「動き」だけがあるときには、その「動き」を何らかのかたちで「数える」ことは不可能である。

2.時間の存在

 すると、時間は、物理的な実体(有)のみにおいては実在せず、時間を計算するためには、一つのもの、すなわち、粒子という、無として存在するものを踏まえなければならない。すなわち、一つのものの視点から、他の一つのものの動きを追ったものが、観測者による相対時間であり、空間の性質による、一つのものの動きに対する影響を定式化したのが、重力場による時間の変動である。そのいずれも、「一つのもの」を基本としており、物理的に、「一つ」として実在するのは無である。

 それは、奇妙な議論を帰結する。時間は、運動において存在しているはずである。しかし運動そのものにおいては、時間を数えることはできず(すなわち時間は存在せず)、かつ時間を数える対象とは、無である。すると、無という粒子が、有という運動において、数によって数えられ、その論理にしたがって得られるのが、時間である、ということになる。すなわち、時間を成り立たせる論理においては、運動が計算される必要があるが、運動という物理的有を、計算するためには、計算の対象である、物理的無を考える必要があり、さらに、その無が有において運動する仕方を再現・予測するところの、計算という数が必要であり、そのように、有という運動について、無を数において再現するときに、時間は発生する。

3.時間の現在

 すると、時間とは、計算上においてのみ存在することになる。計算の対象である無は、実体的にはどこにも存在せず、計算の媒体である有には、時間がないためである。時間とは、運動する有について、無である粒子の存在を踏まえることで、その「点」の動きを数的に再現するときに、はじめて発生する。すると、時間の捉える対象は無であり、時間として再現されるものは、有としてはどこにも実在しない。有とは、粒子ではないところの、一切の位置を指し示すことのできない、波打つ空間でしかないためである。したがって、時間の表現は、数的にのみ可能であり、その表現に対応する実在を、有において指定することはできない。

 このように、数的計算においてのみ表現されるのが時間であるとすると、時間の現在、および、過去と未来についての理解を立てることが可能になる。すなわち、時間というのは数であるため、それは、数直線上において、数を数えていくことに等しい。ゼロを始点に、1、2、3と数えていき、いま5972、5973、5974と数えている感覚があるものが現在であり、その数えている感覚を失って、数え終わった数が過去であり、これから数えそうだと思っている数が未来である。それは、直線的であっても、円環的であってもよい。というのも、一本の数直線(線分でも無限につづくのでもよい)上の数を数えるのも(直線的)、一つの周期が巡った数を数えるのも(円的)、あるいは、一つの数直線の単位を数え終わったことで一つの周期を数えていくのでも(直線に接する円)、そして、何ら線的概念なしに、単に数を数えるのでも、時間という数を数えることには、何ら変わりはないためである。また、数すなわち時間が、予め存在するのかと考える必要もない。時間の存在とは数でしかなく、数について、可能性上に存在する数と、現に存在する数を区別しても無意味だからである。要するに、今時間の数を数えているのが現在であり、数え終わった数が過去であり、数えそうな数が未来であり、その数以外に、時間は存在しない。その数える時間の先と、そして後において、予め流れている時間があるのかと考えるのは、現実に矛盾する。運動の実在においては、何らの時間も実在せず、いま時間を数えることにおいてのみ、時間は確定するのであって、そのように確定する時間の、前と後が、どのように確定しているのか問うことに、意味はない。その、時間を数えていない、時間の前後は、単純に、時間が不確定なのである。

4.歴史

 しかし、時間を数えないときには、時間は不確定であるというのは、おかしなことのように思える。というのも、その考えにもとづくと、自分が忘れてしまったものは、不確定になる、というように聞こえるが、それは感覚上の問題であり、現に過ぎ去った過去の存在が、どうなってもいい、というのはおかしい。

 この疑問については、次を考えると分かりやすい。すなわち、仮に、素粒子が一切存在していない実体を考えてみると(筆者の意見では、宇宙の発生と終焉の前後は、そのような世界である)、その実体には、何ら動きがない。そのように動きがないときに、時間の数を数えるとして、果たして、そのように数える数が、時間の何を表現しているといえるのだろうか。そこには、その数を確定させるものが何もなく、そのように数を数えても、その数は何も意味しない。時間はこの場合、世界の何も表現することができず、そして、そもそも数えるということそのものがない。時間を指定する対象である、粒子が何ら存在しないときには、数として数えるものがないためである。したがって、粒子が存在しない空間においては、「時間」を「数える」ということがなく、その場合には、時間というものはまったく不確定である。

 時間を数えないときに、時間は不確定である、というのは、この意味においてである。すなわち、何らかの時間を数えうるときには、そこには確定した時間がある。そのため、仮に自分が、数え終わった過去を忘れたとしても、その過去においては、現に時間を数えることのできていた自分がいたのであり、そのため、その過去の時間は確定している。あるいは、自分がいなかったときの過去についても、その過去においては、自分と同じように時間を数えていた誰かがいたのであり、その誰かがありうるかぎり、そこには確定した時間があった。また、人が誰もいなかった過去についても、そこに、無である粒子が存在するかぎり、その粒子の運動を、数において、1、2、3と数えることは可能であり、数えることが可能であったかぎり、その過ぎ去った時間は確定している。同様に、粒子が存在するかぎり、時間は永久に流れつづけ、永久に確定している。数直線は、数直線としては、永遠に不変であるためである。

 しかし、時間が、時間として存在するかぎり、永遠に確定していることは、歴史の、未来と過去、そして現在が、すべて歴史の内容として、確定している、ということは帰結しない。というのも、時間が確定しているときに、確定しているものとは、数を数えているという事実のみであり、数えられている対象の、無という粒子が、空間中においてどのように運動するのかは、時間の関知するところではない。要するに、時間とは、運動のテンポを提供するのみであって、座標軸上の、ある位置が、次にいずれかの位置に運動するときに、点の移動する、移動のテンポのみが時間であって、点が、どの位置に向かって、どのような方向に移動するのかは、時間によっては表現されない。時間というのは、単純に、時間の数を数えるだけのものであり、それは単なる数直線を数えるのみであって、数を数える時点で、数を数えうるかぎり、その数直線が確定していることは確かである。しかし、時間の数直線が表しうるのは、単に数を数えるということのみであって、それ以上の情報を、時間が担うことはない。

 そのため、情報が蓄積されていくものとしての歴史は、当然のことながら、情報量ゼロの歴史の始点から始まり、時間を数えていくのに合わせて、運動の情報が増大していき、時間を数えうるかぎり、際限なく情報量を増やし推移していく。歴史が、そのように時間とは異なるのは、歴史とは運動の情報、すなわち有である実体の表現であり、時間とは、この実体においては実在しない、数上のものであるためである。数は、実体に対応するものの、単純な数は、実体の内容を、何ら反映しない。単に数を数えるだけの存在である時間は、実体の運動の物差しであるものの、その物差しが測るのは、すでにみたように、運動のテンポのみであり、運動内容は、一切指定しない。

5.時間の動き

 時間が数を数えることであり、それは単純な数直線を数えることであるとすると、相対論の言う時間の伸縮も、素直に理解できる。すなわち、1、2、3と数を数えるときの、テンポが遅いほど、時間の数を数える間隔はひらくため、その時間はより遅くなり、テンポが速いほど、時間の流れは早くなる。ただ、その時間の伸縮は、時間次元そのものに起因する現象ではなく、粒子の存在と運動に対するところの、空間の性質に原因があり(再び、先の投稿の内容を参照されたい)、相対論の時間次元は、その実体空間の性質を演算した、演算上の概念である。数式上は、時間次元と空間次元を因果上区別できないため、解釈によっては、時間次元が運動のテンポの伸縮の原因であると考えることもできるが、その考えは解釈が難しい。時間次元の効果が具体的に計算するのは、時計の速さの相対的な伸縮であり、時計の動きが運動する実体のすべてを司ると考えるよりは、運動する実体の性質が計算にあらわれることで、時計の速度も影響を受ける、という方が、因果として分かりやすい。相対論の計算は、現在のところ正確であり、運動は、場所によって、そして加速度によって、そのテンポの速度を変化させるものであり、その実体の性質が、数を数えることに反映されたのが、時間の伸縮という現象である。

 すると、ひとつの疑問が生じる。というのも、相対論の言うように、時間の数を数えるテンポは、それぞれの場所と、それぞれの運動の条件によってバラバラである。極端に言えば、一つ一つの粒子ごとに、時間の速さは違う。すると、時間の動きに、共通の動きがないのであれば、共通の現在というのは、なぜあるのか。ニュートン的な、空間に一様に流れる絶対時間は、相対論によって否定されている。しかしその否定は、一様に存在する、この現在というものの存在も、否定するのだろうか。

 時間とは、運動についての、数を数えることである。その際、数えられているところの、動作している「もの」とは、粒子という無である。時間の速さが、バラバラになるのは、粒子に着目しているためであり、そのかぎりでは、共通の現在は描けない。するとここに、形而上学的な考えをいくつか差し挟む必要が生じる。それは、次のようなものである。現在とは、運動のことであり、運動している実在(実体である物理空間という有)が、現在である。粒子は、この実体に作用するかぎりで、実在しており、実在とは、運動する「もの」ではない、一切の個体性を示さない運動である。運動する実体の、ある場所では、運動はより容易であり、別の場所では、運動はより困難である。そのため、運動がより容易な場所において、無(粒子)を指定して、その無の動作の時間を数えると、その時間はより速く数えられ、逆の場合は、時間はよりゆっくりと数えられる。すなわち、無を基準にすると、共通の現在は失われるが、有を基準にし、その有を現在と考える場合、時間の伸縮は、現在(有)の運動のしやすさにあたり、物理実体という共通の有において、共通の現在の根拠が得られる。

 それは、アインシュタインの時空という4次元の発想に倣うと、物理実体を1枚の平面に喩えるならば、時間とはその実体( = 運動)について数を数えることであるため、数を数える数直線が、平面に対して垂直に流れるように表現できる。すなわち、次のようなものである。

図1

図1において、平面が運動空間(実体)、矢印が時間の数(数直線上に数を数えていくこと)を表す。ただ、この矢印は、数を数えるものであり、それは一つの粒子(平面(有)に作用するかぎりで実在する無)の動作についての数であるため、実際には、図1の矢印は粒子の数だけ存在し、それは簡略化すると、次のような状態である。

図2

図2において、数直線の矢印が、平面に交わるところごとに、粒子(無)が存在する。交点に位置する粒子が、平面上を運動すると、その運動を数える数直線も進行し、数直線上に数を数える(時間である)。先ほどの問題、すなわち、時間を数える速さは粒子ごとに異なるため、粒子を基準にすると、共通の現在が描けないという問題は、図2をみればある程度分かりやすい。図2の、右側の矢印と、中央の矢印では、時間を数える速さが違い、それは一つの言い方をすれば、2本の数直線の、目盛りの間隔が異なっているということである。中央の矢印の方が、数えるのがより速いのであれば、中央の数直線は、目盛りがより細かく、それに対して右側の矢印の数直線は、目盛りがより広い。しかし、いずれの数直線も、現在という、数を数えるタイミングは、同時であるはずである(これがここでの形而上学的仮定の根本である)。すると、現在が同時であるためには、これらの数直線の、現在を数えるタイミングも、同時でなければならない。もし、図2のように平面を考えずに、単に現在が、これら4本の数直線上を移動し、数直線上を現在が通過することで、時間における現在が成り立つと考えるならば、現在の同時性はありえない。4本の数直線では、それぞれ現在を数える速さが異なるためである。他方、その逆に、図2の平面(現在)を固定し、数直線の方が移動すると考えると、何も問題は起こらない。それは単に、(実体である)平面という運動のしやすさ・しにくさに応じて、その平面上を無が運動するときの、無の動作の数えやすさ・数えにくさが、場所と条件に応じて変化するというだけであり、図2においては、平面が固定されたまま、数直線がそれぞれバラバラな速度で平面を通って進行する、というように表現できる。

 すなわち、予め実在する数直線(時間)上を、現在が進行する、というモデルでは、同時する現在はない。しかし、実在する運動を、数える数としてのみ存在するのが時間であるとすると、数を数えるテンポが、粒子ごとに速いまたは遅いとしても、現在を数えるタイミングは同時であると、考えることが可能になる。すなわち、先にまとめたように、時間は数でしかなく、物理実体として実在するものではない。有である実体においては、いかなる数も実在せず、数が再現しうるのは、実体に作用するかぎりで実在している、物理的無の動作のみである。

6.時間の形而上学

 すると、ここには、4者が存在している。一つは、物理的有であり、これは空間という運動する物理実体である(それは3次元であるとはかぎらない)。それは、単なる波打つ波動という運動であり、そこには、有としては、いかなる位置も存在しない。二つ目は、その有に作用する、物理的無であり、この無とは、粒子として存在するものである。位置とは、この無において特定しうるものであり、無を特定することではじめて、「一つの」動きを指定し、演算することができる。三つ目は、その無の動きを数える数である。すなわち、無の動きを把握するための、演算の数学理論であり、その理論演算のアルゴリズムを設定することで、はじめて、「一つの」運動は再現・把握可能になる。そして、四つ目に、この理論の演算の計算を成立させるものとしての、時間の流れにおいて、はじめて「一つのもの」の運動が成立する。物理演算のアルゴリズムは、その根本において、時間の数を数えないと、機能しない。時間を数えないところに、物理の計算はないからである。

 このようにみると、一つのもの、すなわち個は、無であるとともに(アリストテレスの考えた素材因)、数によってのみ把握され(形相因)、時として機能して(始動因)、有を動かすものである(目的因)、と分かる。しかしこの点は、本論の内容からは逸脱するため、これだけにしたい。

7.現在・過去・未来

 以上で、はじめに挙げた、問題Cに答えた。次に、問題B、すなわち、過去と未来はいかなる点で存在論的に異なるのか、いかなる仕方で、時間は未来から過去に流れているのかについて考えたい。

 先にふれたように、未来とは、時間の数のうち、これから数える数であり、過去とは、時間の数のうち、数え終わった数であり、現在とは、この時間の数を数えさせるもの、すなわち運動である。だが、すでにみたように、運動(有)においては、時間は実在しない。そのことは、すなわち、運動を内容とする時間は、実在しないということである。すると、未来と過去の差は、次のように表現できる。未来は、これから数える数であるため、それは単なる数である。過去は、その数によって数え終わった数である。すると、過去をなす数と、その数に基づく演算は、運動の内容に、現在において対応し終わっている。すなわち、数を数える、そのタイミングにおいて存在するのが、運動( = 現在)であり、したがって、数え終わった数、すなわちかつて現在に対応した数には、かつての運動の情報が対応していることになる。そのため、未来には、運動の情報は対応せず(数でしかないため)、過去には、運動の情報が対応している(数が運動を数えたため)。すると、数の演算が表す情報としては、未来には数的な理論しかなく、過去には、その数的理論の表現した情報が加味されていく。比喩的に言えば、情報の集積度としては、未来は集積度が少ないのに対し、過去は集積度が際限なく増えていく。この、情報集積度の増大が、未来に対する過去、過去に対する未来を区別する。すなわち、情報の少ない数が、情報の多い数へと推移することが、未来から過去への、時間の流れにあたる。それは、比喩的に模式化すると、次のようになる。

図3

図3の細めの青線は、時間の数(矢印の数直線)上に対応する、物理的な情報量を示す。ある任意の始点を置くと、その始点から、運動(有である平面)について時間の数が数えた情報は、青線のように、時間に比例して増大し、その情報量(円)が大きくなるほど、その情報の集積度も増大する。未来(平面のあちら側の数直線)には、このような情報量がほとんどなく、そのように、情報量にほとんど変化がないところから、現在を通過することで、情報量が増大に転じることが、未来と過去を区別する。

 さて、ここでは、時間が、未来から過去に流れていると説明しているが、素朴な直感では、時間は過去から未来へと進んでいくものである。その考えからすると、時間は、過去から未来へと流れているように思うが、その発想が現実を説明しないことは、先ほどの、現在の同時性の問題から分かる。過去から未来に流れる時間とは、数直線上に進んでいく時間であり、その場合の現在とは、数直線の進んでいく先頭である。しかし、(極端な話だが)粒子ごとに時間の速度が異なる以上、そのように、数直線ごとに異なる現在があるとすると、同時する現在は、どこにもないということになり、すると、同時する現実とはどこにあるのか、ということになり、素粒子ごとの多世界を想定せざるを得なくなる。いや、時間というのは統計的なものであって、粒子の集団ごとの多世界を考えればいい、という反論もあるかもしれないが、その場合、どこまでが世界で、どこが世界の境界であり、複数の世界は、どのようにお互いに関係するのか。時間をただ統計的なものと、哲学的に考える場合、時間というのは、物理的な実体のない、単なる幻ということになる。そのように時間と現実を幻化する必要はなく、それは次のように考えればよい。

 筆者の説明では、有(図の平面)が無によって運動すると、その運動を数える時間が、矢印方向に数を数えていくため、数直線は、平面の向こう側(未来)から、平面のこちら側(過去)へと流れていく(平面が固定されており、平面(現在)が数直線上を進行するのではなく、平面(現在)を数直線が通過するため)。すなわち、数直線の1、2、3と数えていく方向は、図の矢印方向だが、その数直線上に数えていく動点が、実際は固定されているため、現在という数直線上の点(図の平面)に対して数直線が動き、それによって見かけ上、数直線からみると点(平面)が動いているようにみえる。つまり、数直線を数える立場からみると、現在は過去(図のこちら側)から未来(図のあちら側)へと動いているが、物理的な有(図の平面)からみると、数を数えるものとしての時間の数直線は、未来(図のあちら側)から過去(図のこちら側)へと流れている。

 それは、比喩を使えば、川を進むボートに似ている。自分はボートに乗り、一生懸命漕いで進んでいる(いまは夜の真っ暗闇で、景色はみえないものとする)。自分は漕いでいるため、前に(過去から未来に向かって)進んでいると思っている。しかし実際は、川の流れに逆行して進んでいたため、自分(現在)は一つの位置で動いておらず、川の水流(時間の数直線)だけが、自分の漕いでいる(数えている)進行方法とは逆方向に流れている。そのため、言い方にもよるが、時間の進行方向は、過去から未来だが、時間の流れは、未来から過去である、とも表現できるかもしれない。

8.記憶と意識

 しかし、ここで一つの問題が起こる。それは、時間の数直線上における、現在と時間の関係についてである。というのも、時間を、過去から未来へと流れるものと考え、数直線を数えていく進行そのものが時間の流れをなすと考えると、時間とは数直線に等しく、数直線という実体をもち、現在は単純に、その実体の先頭にあると考えればよい。しかし、物理的な実体として、時間は存在せず、時間とは純粋に数を数えるだけのものであるとすると、それは、現在という点が、数直線の数のうえを(見かけ上)動いていき、その点が目盛りを通過する度に、時間の数を数える、ということを意味する。すると、時間のなか、数直線のなかに、現在は一切の実体を占めないことになる。物理的実体において時間が存在せず、実体と時間は異なる存在であるとすると、実体において時間がないように、時間においても、現在は実体として存在しない。現在が、数直線上に、一切位置を占めない、点という瞬間になる、という意味である。

 筆者が、このメモのタイトルを、「極度現在説」としたのは、この理由による。すなわち、筆者の主張では、実在とは現在であり、現在のみが、物理的な有として、実在をなす。そして、その現在とは、時間的な大きさも、位置もない、純粋絶対的な、時間上の虚点(瞬間概念が近似しようとするもの)である。すなわち、時間的に唯一存在しないものが、現在という時である。

 では、現在が、時間的に実体をもたない、物理的実在であるとすると、この現在、いまこの文章を書き、いまこの文章を読んでいる現在とは、何なのか。そこには明らかに時間的な流れがあり、いま感覚している時間の流れが、現在ではないのか。現在が、時間において実体でないとすると、この感覚は、嘘なのか。

 この、現在の感覚は、先ほどの、時間の数の数える情報と、記憶と、意識の関係によっている。再び図を確認したい。

図3

図3においては、平面が実体をなして固定され、その平面の(無の)運動を矢印の方向へと数えることで、時間(数直線)は、図のこちら側へと流れ、それに合わせて、数え終わった数(図のこちら側の数直線を占める数)に対応する、情報の集積度は比例して増大する(細めの青線の円)。以上をふまえ、人の記憶についてみてみたい。人の記憶は、基本的に、実体である脳と体において形成される。そのため、この記憶は、図3においては、平面(物理実体)に実在する。そして、出生時の、記憶が形成された時点は、時間が流れていくのに伴って、過去へと退いていく。それは、図においては、矢印中のある点が、平面において発生したのち、図のこちら側へと流れていくことである。そのように記憶の発生が過去へと流れていくのに合わせて、その人の記憶は増大していくため、実体(図の平面)における記憶の領域は増大する。比喩的に模式化すると、次のようになる。

図4

図4においては、赤い円が実体において実在する記憶にあたり、細めの赤い線が、記憶する情報量の推移を示す。もちろん、記憶する情報量の推移は、この図のように単純に時間に比例するものではなく、この図はあくまで概念的なものである。すると、時間が過ぎていくほど、青い円も増大するとともに、赤い円も増大していく。このときの、意識の成り立ちをみてみたいが、その際には、ひとつ経験的な事柄を参照したい。すなわち、先ほどの反論にあったように、私たちの意識においては、現在とは常に一定の時間的流れのあるものである。現在という時間が、時間的な広がりをもつために、この現在という感覚と意識が感じられる。では、この意識は、この図では、どのように成り立つのか。

 一つ肝心なのは、意識が成立するためには、一定の運動量が必要である、という点である。しかし、運動の量を数えることは、実体には実在しえない。この量は、無(粒子)の運動を測る数であり、その無は、実体における実在としての、物理実体の振動においては存在しないためである。すなわち、実体について、運動の量を測るものは、実体における有においてはありえない。そして、運動の量を測るためには、運動についての一定の情報の蓄積が必要である。時間的に虚点でしかない現在においては、この情報の蓄積が存在しないため、運動の量を数えるためには、その量を数えることが、情報の蓄積された、過去においてのみ成り立つ、ということが帰結する。また、運動量を数えるためには、蓄積された情報(それは客観的なものである)を、主体が記憶している必要がある。しかし、主体という、現在において存在を動かすものは、現在におけるかぎりでは、一切の数を数えることはできないため、記憶を数えることができるのは、蓄積された情報をもつ、記憶の過去についてである。

 それは、次のように模式化できる。

図5

図5は、図4とほとんど変更がない。ただ、情報記述の蓄積量(細めの青線)のなかの、記憶の情報量(細めの赤線)の最大値を、太めの緑の円によって示してある。この緑円は、主体が記憶しているかぎりの、過去の記述情報を表し、主体が数える数を、量として数えることのできるものとは、この緑円に位置するものである。

 意識と自我とは、この緑円において、時間の進行により蓄積された記述情報をもとに、現在の運動量を測定し、その測定によって、現在における、「もの(無)」の運動を把握したものである。そのため、「私」は現在には存在せず、過去において存在し、その「私」からみると、時間には、すでに一定の情報量(そして記憶量)があるため、さしずめこの過去の意識という緑円が「現在」であるかのように、その円を通過するところの、時間の数を数える数直線の流れと、その流れのうえに数を数えていく、時間の進行を感覚する。

9.人の生

 この図5については、3つの円の関係によって、人という意識の辿る生を描けるかもしれない。ただ、これ以降の議論は、単なる推測である。

 時間の経過による、物理情報量の増大は、基本的に客観的なものであり、その増大のペースは一定である。しかし、主体における記憶は、主体が現在という現実のなかで、どのような経緯を過ごすのかに応じて、多分に変動する。そのときに、次の点が指摘できる。記憶は、主体にストレスがかかるほど、多くの事柄を記憶している。ある程度落ち着いた活動を、とくに何もストレスなく過ごす生は単純であり、記憶が記憶する事柄は一定である傾向にあり(というのも、反復が多いので)、記憶の増大は緩やかである。他方、様々な、そして困難な活動を、同時におこなう必要のある生を過ごす場合、主体が記憶すべき事柄が、常に増大し続けることから、記憶の領域は、速いペースで増大する。すると、主体における記憶の領域の、増大するペースは、生のストレスに比例する。それは、単に多忙な仕事の生ほど、主体の記憶領域が速く増大する、という意味ではない。失業したまま時間を過ごすことは、主体性を発揮する機会を失うことにあたるため、主体は自分の主体性を得ようとして、躍起になって活動し、そのため多くの場合、仕事を辞めると心が乱れる。その乱れた心は、定まったリズムの反復がないことから、反復される事柄を得にくく、記憶の領域は速いペースで増大する。そのため、仕事が多忙である場合も、仕事がない場合も、主体にストレスがかかると同時に、主体における記憶の領域は、速いペースで増えていく。すると、物理情報の量は、一定のペースで増大するものの、主体における記憶領域が、その物理情報量の増大に対して、速いペースで増大する状態が考えられ、その状態は、次の図のように模式化できる。

図6

図6は、図5を横からみて、記憶領域(細めの赤線)と情報記述量(細めの青線)の位置と大きさを変えたものである。図6においては、情報記述量に対して、記憶領域が飛躍的に増大している。注目したいのは、その、赤線と青線によって定まる、意識の量と、その意識の、時間の数直線上の位置(太めの緑線)である。情報記述量の増大よりも、記憶領域の増大が速いペースで増大する場合、意識の量(緑線の長さ)は増大するとともに、記述情報のなかの、より過去の情報にまで遡っていく(図5での、記述情報の円錐のなかの意識(太めの緑の円)の位置と、図6での、記述情報の円錐のなかの意識の位置を比較されたい)。つまり、主体の記憶する領域が、情報記述の蓄積していくペースよりも、より速く増えていくと、「私」の意識しうる範囲が広がるとともに、「私」という意識は、現在という実在から、よりはなれていく。一般に、人は若い頃は集中力が鈍く、しかし現実の変化には機敏に対応できる。逆に、年老いていくほど、集中力も意識も強くなる(人は80歳以上において最も幸せを感じるが、それは自分が確かであるためかもしれない)ものの、現実に対する感覚はうすれ、想定外の変化への対応がしにくくなる。そして、老年に至ると、ほとんど皆言うには、子どもの頃の記憶が鮮やかに思い出され、他方、すぐ最近の記憶は希薄である。その、人の生についての現象は、おそらくだが、上の図の関係に、よく合致する。

結び

 以上において、現在のみが実在するという時間の現在説の立場から、現在説が抱える問題に答えたものと思う。すなわち、実在する現在とは、時間のなかに一切の位置を占めない、時間の虚点であり、意識する現在とは、実体である現在においては実在しない、過去におけるものである意識が、感じているものである。それは、物理的実体の存在と、意識の存在が異なると考えており、心身についての二元論にはあたらない(というのも、意識(心)の原因は、現在という物理実体と、それを数えることによって流れる、その実体についての客観的な時間であり、そのため心そのものを、物理に対置される根本的な元としては認めていない)ものの、一種の多元論にあたる。すなわち、意識とは、実体と、記憶と、時間と、過去の四つを元として成立するものであり、筆者の意見では、四元論的に、意識は描かれる必要がある。一般に思われている世界観と、このメモにおける世界像は大いに異なっているものの、物理学的な事実の、一つの解釈に従うと、世界とはこのように、理解されるべきではないだろうか。

2025.5.10 更新

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